黄金の師弟コンビが板橋で甦る

 

日本を代表する名店で料理長として活躍した二人の名匠は、かつて同じ厨房で数々の伝説の料理を生み出してきた黄金の師弟コンビでした。その二人が、今、板橋で久しぶりにコンビを組み、最高の技術を結集して伝説の点心を復活させるプロジェクトをはじめました。

昨年12月に師匠髙野文雄料理長が板橋大山で老麺肉まんを復活させた知らせを聞き、この春に持田進シェフが合流しました。持田進シェフは中国料理世界大会で準優勝の経験を持つ世界レベルの職人ですが、今でも髙野文雄料理長を師匠と仰ぎ、更なる技術を学びたいと髙野に合流しました。こうして久しぶりに黄金の師弟コンビが板橋で実現し、伝説の点心復活第二弾としてこの度「えび焼売」を甦えらせました。

髙野が作る「えび焼売」は、著名な料理人を多数輩出した名店平和島大飯店の流れを汲み、目黒雅叙園でも絶大な人気を誇る定番商品でした。職人が匠の技を惜しげもなく注ぎ込み、手づくりで生み出すその味は、点心の域を遥かに越えて中国料理の最高技術を結集した贅沢な味です。

二人の名匠の饗宴による新商品「えび焼売」
2018年4月11日(水)より販売を開始です。

世界大会銀賞受賞ワールドクラスのスーパーシェフ 持田進

髙野に新加入した持田進シェフは、1993年に台北で開催された中華美食展 中国料理コンクール国際部門に日本代表として参加し、団体部門銀賞(準優勝)、個人部門銅賞(第3位)を受賞しました。1993年と言えば、サッカー界ではドーハの悲劇にワールドカップ初出場を阻まれ、野球界では野茂英雄投手がMLBに移籍する2年前のことで、まだ日本人が世界の壁を破れずに苦しんでいた時代でした。そんな1993年に、中国料理の本場で日本人が世界に挑み、見事準優勝という快挙を成し遂げたのが持田進シェフなのです。

料理の道へ、そして髙野文雄料理長との出会い

1975年に料理学校を卒業し調理師免許を取得して、最初に料理人の道を歩みはじめたのは、新橋の老舗中国料理店の新橋亭(しんきょうてい)でした。20代前半の伸び盛りの時期を、老舗の名店で中国料理の基礎をしっかりと学びました。この間に髙野文雄料理長と運命的な最初の出会いがあります。

出会った場所は、上野駅のホーム。「上野駅のプラットフォームで、ぷらっと出会ったのが最初だよ」と、髙野文雄料理長は得意の冗談交じりに最初の出会いを語ります。ある夜、共通の知人と一緒に偶然上野駅で出会ったのが本当に最初の出会いだったそうです。

雅叙園で運命的な再会

新橋亭で5年勤めた後、持田シェフは目黒雅叙園に移籍します。雅叙園で配属された先が髙野文雄料理長のいるところで、ここでふたりは運命的な再会を果たします。「あの時上野駅で会った人だ!」というのがお互いの第一印象だったそうです。

同じ厨房で働くことになったふたりは、20代後半から30代前半という人生の黄金期を目黒雅叙園という最高の舞台で共に過ごします。当時、髙野文雄料理長は既に伝統の技術を極め、革新的な手法で数々の新しい試みを繰り出して活躍していた時期で、持田シェフも大いに刺激を受けて、お互い切磋琢磨して技術を高めていたそうです。特に髙野文雄料理長の老麺肉まんや焼売といった点心類にストイックに対峙する姿勢に凄みを感じていました。この時期全盛期のふたりが共に同じ厨房で作っていた味が、今回髙野で復活する焼売なのです。

(下の写真は目黒雅叙園時代の髙野文雄料理長と持田シェフです。)

1993年、人生最大の確変期

目黒雅叙園での黄金期を経て、ふたりはそれぞれ別の道を歩みます。持田進シェフは料理人人生をスタートした新橋亭へと戻り、そして世界大会へ挑戦する1993年を迎えます。持田進シェフにとって1993年は実に様々な出来事が一気に集中し、忘れられない年になりました。世界大会への参加が決まったのが6月、長女の出産が7月、世界大会が8月というタイミングでした。その他にも日本中国料理調理師会で資格制度を確立するためのプロジェクト、テレビ番組の長期密着取材、等々が見事に重なり、正に人生における最大の確変期ともいえる一年でした。

台北で行われた世界大会には、団体戦の8つの国と地域が、個人戦には192名の選手が参加して、それぞれの部門で味と技術を競いました。台北の空港に降りた瞬間から、その規模と熱い盛り上がりに圧倒されたそうです。当時の様子を振り返り、日本人選手が大会に挑む姿は、野球でいえば本場のメジャーリーグで闘うような雰囲気だったそうです。  慣れない異国の厨房や言葉の壁、直前のルール変更、テレビ番組の取材等、国際大会の様々な困難にも立ち向かい、日本人らしい繊細な味と美を武器に見事に入賞を果たしました。世界大会に参加した持田進シェフは、世界にはとてつもない技術を持つ職人がたくさんいて、まだまだ自分も技術を磨きたいとの感想を語っていました。

黄金期の中心にいたふたり

この時期、日本中国料理調理師会は、世界大会への参加をはじめ、日本における公式の資格制度の整備、技術習得のための海外派遣、中国から講師を招いての講習会活動、等々、実に精力的な活動を展開します。この活動の中で中心的な役割を果たしていたのが髙野文雄料理長でした。団体設立のために1975年に日本人初の中国料理最高資格を取得して以来、個人の技術追求のみならず、業界全体の技術水準の向上、料理人の地位向上を図る活動にも尽力し、後輩の指導育成にも熱心に取組んできました。この頃の日本中国料理調理師会の会報誌を見ると、業界全体で坂の上の一点の雲に向かって走り、皆で盛り上がる時代の熱気が伝わってきます。

1993年は、伝説の料理番組となった「料理の鉄人」の放送が始まった年でもありました。中国料理界からも鉄人を送り出すことになり、後輩の陳建一氏を派遣し、中国料理界全体の広報活動としても良い成果を得ることができました。黄金の師弟関係で結ばれた髙野文雄料理長と持田進シェフも、厨房こそ違えども、それぞれの場所で日本を代表する活躍をしていた黄金の時期でした。

(下の写真は1993年頃、髙野文雄料理長が全国の料理人をまとめて美食会会長をしていた)
左から、持田進シェフ、料理の鉄人出演の陳建一氏、髙野文雄料理長、TVチャンピオン石川敏行氏

板橋で再び黄金の師弟コンビが甦る

2018年3月、持田進シェフが大山商店街の髙野に合流しました。世界大会銀賞、老舗の名店で料理長を勤めたスーパーシェフが、60歳を過ぎてもまだ修行がしたいと志願して、髙野文雄料理長のもとにやってきました。70歳を過ぎて、あの難しい老麺にチャレンジする髙野文雄料理長の姿勢が、持田進シェフの職人魂に再び火をつけました。料理人仲間や後輩たちでさえ、そろそろ現場を退いて引退する時期なのに、第一線に復帰して老麺を作るとは尋常ではない出来事なのです。

髙野文雄料理長から見た持田進シェフの印象は、慎重派で実直なタイプとのことです。あまり感情を表に出さない寡黙な職人の典型のようなタイプらしいです。安定を好む持田進シェフが、この年齢になって髙野文雄料理長のもとへ再びやって来るというのは、口には出さないまでも相当の情熱がないと出来ないことです。その情熱をしっかりと受けとめた髙野文雄料理長。いくつになっても消えることのない師弟関係という信頼には、多くの言葉は必要ありませんでした。こうして黄金の師弟コンビが久しぶりに板橋の地で復活することとなったのです。

点心という宇宙

中国料理を極めた職人が最後にたどり着く境地が点心と言われています。最高の技術を高級料理だけでなく、日常の暮らしの中で気軽に食べられる形で表現したい。それこそが髙野が求める点心の姿です。小さくてシンプルな点心の背後に、深淵なる宇宙のように奥深い料理の世界が広がっている、そんな点心という宇宙を表現したいと考えています。格式ばった高級料理ではなく、普段着で味わう最高の技術と味。めざすのは普段着の最高技術です。

板橋への愛着

髙野が考える点心の世界を表現する場所として板橋を選びました。親しみやすく、庶民的で、情に厚いイメージの街。大山商店街は、地元の人たちが日常の暮らしの中で使う場所なので、髙野の点心を表現するには最適な場所であると考えます。普段着でくつろげる街、板橋。12月の開店以来、地元の皆様の温かさを日々実感しています。

若かりし頃の髙野文雄料理長が故郷山梨から東京に出てきて、社会人生活をスタートした場所が実は板橋だったそうです。「この街に来ると、いつでも初心に戻れるね」髙野文雄料理長の料理人生活発祥の地が板橋だったのです。  かつて黄金の師弟コンビと言われたふたりの名匠が、板橋の地に吸い寄せられるように集まり、伝説の点心が甦ります。老麺肉まんに引き続き、この春新発売のえび焼売にも職人たちの想いと情熱がぎっしり詰まっています。

関連記事

  1. 料理長のこだわりBGMと老麺

  2. 中国料理最高資格

  3. スローなニクにしてくれ

  4. 五感で創る:ふれる(触覚)

  5. 中国料理調理師友好会

  6. 五感で創る:かぐ(嗅覚)

  7. 髙野開店ストーリーその1:老麺

  8. 五感で作るゴッドハンド